1.ア式蹴球とは?
 アソシエーションフットボール(association football)のことで、つまりはサッカー(soccer)のことです。 早稲田大学ではサッカー部のことをア式蹴球部といい、その名は日本サッカーの歴史に由来しています。

2.ア式蹴球部とは?
 早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)は、1924年(大正13年)に創設され、「サッカーにおいて、また人間形成において、早稲田が1番であり続けよう」という熱い思いから生まれた合言葉「早稲田 the first!」のもと、現在に至るまで76年間安定した発展を続けてきました。ア式蹴球部女子はこの熱い思いをそのまま携えて創設されたチームです。

3.WMWって何?
 WMWとはWaseda Maroon&Whiteの略で、「海老茶と白」という意味。以前のユニフォームが海老茶と白の縦じまだったことに由来しています。

4.ア式蹴球部女子ってどんなチーム?
 1991年にア式蹴球部に女子部が創設されて16年。着実と伝統を築きつつあります。現在、監督、トレーナー、学生トレーナー、学生コーチの指導のもと、 なでしこリーグ撃破!、インカレタイトル奪還!日本一、を目指すとともに人間的成長を課題に、練習に励んでいます。
 現在部員は24名(2007年3月現在)。部員になるために必要なのは、サッカーをやってみたい!サッカーがうまくなりたい!という気持ちのみです。部員の中には、 各年代代表選出経験のある、ばりばりのサッカ ー経験者とともに、大学からサッカーを始めた者も活躍しています。 グランドでは熱く、泥臭く練習に試合に励んでいます。

5.今年度の目標
  「絶対国立!絶対優勝!!」


6.今年度年間スケジュール
 1月:オフ(下旬〜)
 2月:オフ明け
 3月:春季大会
 4月:春季大会
 5月:強化合宿
    東京都女子サッカーリーグ(〜12月)
 6月:全日本女子サッカー選手権 東京都予選
 7月:全日本女子サッカー選手権 東京都予選
 8月:夏合宿
 9月:関東大学女子サッカーリーグ戦
10月:関東大学女子サッカーリーグ戦
11月:全日本女子サッカー選手権 関東予選
12月:東京都リーグ
   全日本女子サッカー選手権大会
   全日本大学女子サッカー選手権大会 予選リーグ
 1月:全日本大学サッカー選手権大会 準決勝・決勝

7.女子部の歴史

2005(平成17年)平成17年度 主将 近藤 絵梨佳
    今年こそはと挑んだ2005年。テーマ「大学日本一」そのテーマに加え「魅力ある選手」を念頭におき取り組んだ。魅力ある選手となり魅力あるチームに、それが全ての基準となった。OB、OGに感謝の気持ちを常に忘れずトレーニングに取り組み、日々目標を見失わないように意識した。最後にはインカレ優勝。大学日本一というタイトルを掴み取ることができた。選手の主体性を大切にし、一人一人がまた一つ成長することのできた一年であった。

2004(平成16年)平成16年度 主将 木下 美緒

  今年も「大学日本一」を掲げ、チームを立ち上げた。昨シーズンの課題であるフィジカルの強化を図り、体育大学との大きな差を縮めたものの、日本一には届かなかった。一点に泣き、一点に救われるという一点の重さを強く感じた年となり、質の高い練習を探求し続けた一年であった。

2003(平成15年)平成15年度 主将 富樫 美樹子

 下級生よりも上級生が少ないチーム構成であったが、有力な選手・スタッフと共に、恵まれた環境の中で大学日本一という大きな目標に向かって進むことができた。しかしその道のりは平坦なものではなく、精神面、体力面での問題が事あるごとに浮上し、その都度乗り越えてきた。最終的には目標を達成できずに全国三位という結果で終ってしまったが、チームの目標に一歩近付くことができたシーズンであった。

2002年(平成14年)
  今年こそはインカレ出場と臨んだシーズンでしたが、関東大学リーグでは3勝するも、結果は去年と同じ5位に終わり今年もインカレ出場は無理かと思われた。しかし甲信越代表信州大がインカレ出場を辞退したため、関東の第5代表として女子部創立以来初めてとなるインカレ出場を果たすことができた。
初めてのことで調整が難しかったが、なんとか最終戦の静産大戦で1勝をすることができた。これでまた「大学日本一」が現実のものとして身近に感じられるようになったシーズンであった。

2001年(平成13年)
  この年には自己推薦による入学者が2名あり、ようやくインカレを目指す体勢が整ってきた。夏のつくばフェスティバル優勝の勢いに乗って関東大学リーグに望んだが、結果惜しくも5位。インカレ出場を果たすことはできなかった。しかし勢いは東京都リーグには持ち越して2部リーグで優勝することができた。その結果東京都リーグでは1部昇格を果たすことができた。

2000年(平成12年)
  この年初めて高校日本一にも輝いた聖和学園高校より自己推薦入試で富樫が入学。活躍が期待されたが、東京都リーグ初戦で負傷退場、先行きに暗雲が立ち込めた。関東大学リーグは「大学日本一」を達成するため、まずはインカレ出場圏内の4位を目標に戦ったが、結果は前年度と同じく7位。上位との差を実感させられたシーズンとなった。7位ということで入れ替え戦にまわったが、埼玉大を全く寄せ付けることなく6−0で勝利し1部残留となった。

1999年(平成11年)
  この年に2代目監督に堀野氏が就任。「大学日本一」という明確な目標とともに人間性を重視した指導が行われる。関東大学リーグ1部復帰1年目のシーズン、1部の壁は厚く、7位という結果に終わってしまう。しかし入れ替え戦では帝京大に4−0で危なげない勝利を収め、1部残留を決めた。

1998年(平成10年):再出発
  そして迎えた1998年。決意書を提出し、気持ちも新たに大学リーグ1部昇格を目指すメンバーが集まった。75周年という区切りの年を迎えたア式蹴球部。その歴史に新たな一歩を刻む76年目の年は、女子部の新しい出発の年でもある。
  前シーズン、無念の2部降格。それからというもの、1部昇格だけを目標に日々練習に励んできた。もっと高いレベルでサッカーがしたい。そんな部員一人ひとりの思いが実り、2部での全勝優勝を果たす。入れ替え戦では、前半は0−0のまま折り返した。そして後半23分、右サイドからのミドルシュートがゴールネットを揺らし、先取点。そのまま逃げ切り、みごと昨年の雪辱を晴らした。

1997年(平成9年):試練

  1997年度は苦しい1年であった。この年は由井濱監督のもと、学生で練習メニューを立てて、それを実践するという自主運営が行われた。シーズンインした当初から様々な問題が山積みであったが、中でも部員の確保は悩みの種だった。部員たちの必死の勧誘活動も空しく、大学リーグまでに揃ったのはプレーヤー13人。怪我人も相次ぎ、時には10人で戦ったこともあった。そしてそのリーグ戦では1勝もできぬまま、2部1位の帝京大学との入れ替え戦に臨み、善戦空しく2部降格という結果に終わってしまった。勝てないときというのはチームの雰囲気まで悪くしてしまうものなのか、不協和音を立て始めていた女子部は、シーズンの終わりに解散を言い渡されてしまう。

1996年(平成8年):飛躍

 部としての体制およびWMW組織化の充実をはかるため、96年度より監督就任。由井濱氏が任命される。また、3代目コーチとして大森氏が就任。さらに、現場のレベルの向上をはかるために学生トレーナーを迎え入れ、コーチとの連携によって部員一人ひとりのコンディショニングのチェックや管理を徹底させることになった。質の高いトレーニングが可能になった。
 4年生主体のチームであったが、下級生たちの理解と援護により、インカレ出場を目標に勝てるチーム作りに専念。惜しくも5位というあと一歩の結果に終わったが、1部に残留したことで、非常に意義のある1年であった。

1995年(平成7年):関東大学女子サッカーリーグ1部昇格
 この年に2代目コーチとして津田氏が就任。また、この年からインカレ予選がなくなり、大学1部リーグの上位4チームにインカレ出場権が与えられることになった。そのため、当時2部に所属していた我々は、4年生が1年生の時以来リーグ優勝を経験していないということもあり、優勝での1部昇格を目指した。しかし、優勝をかけた筑波大戦は惜しくも敗れ、2位に終わった。だが、1部8チーム制導入により1部昇格を果たし、インカレ出場への大きなかけ橋となったのである。

1994年(平成6年):関東大学女子サッカーリーグ2部残留

 この前年に、善戦空しく1部リーグ最下位という結果に終わり、また2部からのスタートとなった。そして、これに勝てば2部リーグでの優勝が決まるという東京女子体育短期大戦で、ロスタイムに決められて惜しくも2位。1部への入れ替え戦に臨んだが、やはり1部の壁は厚く、残念ながら2部残留という結果に終わった。

1993年(平成5年):東京都女子サッカーリーグに参加、3部からのスタート

 この年は、4年生を中心に、チームの士気は大いに上がっていた。しかし、夏の「つくばフェスティバル」でFWの要である深野キャプテンが骨折。リーグ戦を目前に控えての主力の負傷はチームにとってとても痛かった。だが、本番では粘り強いプレーと鉄壁を誇るディフェンス力を発揮し、さらに大学院生であった西貝さん(元日本代表)の活躍も手伝って、最下位であったものの、1部リーグ中最小失点という結果をおさめた。

1992年(平成4年):関東大学女子サッカーリ−グ参加、1年目で1部昇格
 2年目に入っても苦戦が続いた。公式戦はもちろん練習試合でさえ、引き分けることはあっても勝つことはできなかった。リーグ戦を目前に控えた8月の大会でも1勝もできなかった。ところが、リーグ戦(2部)の緒戦で国際基督教大を5−0で破った。これで波に乗ったのか、結局、全勝優勝を成し遂げて1部昇格を果たしたのである。

1991年(平成3年):はじまり
 4月、ア式蹴球部誕生。集まった部員は11名。そのうちサッカー経験者は1名。当時は女子のサッカー人口は現在ほど多くなく、経験者も少なかったのである。
 OBである小林氏を初代のコーチとしてお迎えし、マイナスからのスタートもようやくゼロの地点に立つことができた。さしあたっての目標は1ヵ月後の「サッカーマガジン杯」への出場。ルールがやっと分かり始めたばかりの部員たちを待ち受けていたのは、この大会での惨敗だった。初戦の相手は元Lリーグ所属チームのシロキFC。結果は0−15という屈辱的なものだった。しかしゼロからのスタートを一人ひとりが前向きにとらえていたため、この結果肩を落とす者はいなかった。 色々な壁にぶつかりながらも途中であきらめずに、前向きにサッカーを楽しんで強くなろうとした初年度女子部の軌跡。ここにも「早稲田魂」が垣間みられるのではないだろうか。

1990年(平成2年):きっかけ

 当時ア式蹴球部の女子マネージャーとして活動していた一人の部員が、早稲田には女子が真剣に打ち込める体育局の部が少ないという現状に疑問を持っていた。そして「女子サッカー部」を創ろうという動きを起こしたのである。こうした動きに対し、ア式蹴球部の諸先輩方から反対もなく、むしろバックアップ態勢で背中を押していただいた。このことは、部として活動を始めるにあたり、「女子サッカー部」という独立した集団としてではなく、「ア式蹴球部女子」としてスタートできたことでもおわかりいただけるだろう。